雪が降りました。
これからしばらく降り続くようなので、これが止んだら大豆を脱穀します。
ようやく冬が始まる気配に、わが犬は大はしゃぎで耳を立て、いつもと違う顔をしています。
顔や手先をはじめ毛の色まで、ほんのり赤みがさしているようで、本能がそのままよろこんでいるかのようです。
ここしばらく小春日和が続いていたから、この急な寒波に、地元の人々も体とこころが縮んでしまったのかどうなのか
夕方に山の上にある温泉に行ってみると、いつもは常連さんでにぎわっているはずが、ほとんど貸し切り状態です。
独り言も、湯船でのストレッチも、遠慮知らずの優雅な心地に、
こんな吹雪もなんのその、とつい浸りすぎて露天風呂で頭を冷やしすぎたのか、今日は喉が痛いです。
さて、こんな日は引きこもってじっくり料理をするに限ります。
バケツを持っていって、畑に残っていた最後の人参を抜きました。
玉にんじんといって、ピンポン玉のように小さな人参です。
ちいさいながらも、夏の間じっくり時間をかけて育ったので、抜いたとたんに人参の香りが強烈にするものです。
葉っぱも香ばしいので、刻んで塩で煎り、ごまとともにふりかけにします。
ほか、義父が作った里芋や、ごぼう、ご近所のタマネギ、その他いくつかの野菜を丁寧に刻み、
寸胴鍋でゆっくりと火を通して、30分。
そこからおたま3杯を小鍋にとって義母が送ってくれた味噌を溶き、野菜の甘みが優しいみそ汁を頂きました。
野菜以外の出汁を入れていないので、味噌でなくとも、酒と塩、醤油、趣向を変えて和風のカレールー、
とろみをつけてあんかけなど、ここまで調理してストックしておけば、さまざまな仕上げのアレンジができます。
あまり消化器系の強くない私は、博多の明太子育ち、焼き肉好きな旦那の好みについてゆけないので
肉入りの辛いカレーのときは、私はみそ汁を頂きます。
最後の味付けと盛りつけが違うだけで、ベースのスープと、炒り豆入りご飯は同じものですから
違うようでいて、もとはおなじものを摂っているのです。
しかし、まるいちゃぶ台に、どれもを同時に暖かく載せようと思うと
手間と時間的なコーディネートにこつが求められるということはさることながら
仕上げのとき小鍋が沢山いるので、ゆくゆくは3口コンロが欲しいなと思っています。
室内がそう暖かくないだけに、なるべくなら、お皿も暖めておきたいところで
いつも暖かい薪ストーブが燃えている冬は、その熱が使えるので気が楽です。
そしていつか、羽釜と薪でご飯を炊いてみたいものです。
田舎の冬でなら、それが許される気がします。
その昔ちいさな和食の食堂でアルバイトをしていたとき、2升や3升炊きのご飯を、
あつあつもうもうのガス釜からおひつに移すのが、毎日とても楽しみだったことを思い出します。
直火で炊いたご飯は、本当にご飯粒が垂直に立っていて、ぶつぶつと深い音をたて生きているかのよう。
肉厚の釜からあがる湯気が熱すぎて、眉間が寄ってしまって真顔ではとても居れたものではなかったけれども、
左手に濡れ布巾、右手に「宮島」とよばれる大きなしゃもじを力一杯扱いながら、
巻き込まれる心からいい香りに、日本人ばんざい!とこころのなかで叫んだものです。
さすがに、家でそんな量を一気に炊くことはないけれども、いつかまた、直火で炊いたご飯に再会できたら嬉しいです。
幼い頃を公団住宅で育った私は、田舎でなら古くさくて仕方がないものに惹かれます。
そんな、生易しいものではないと叱られそうですが、
そこには荒々しさと細やかさのないまぜになった、奥の深いかぐわしい世界があったのではないでしょうか。
おそらくいま、その世界を生きる強さを、私の体は持ち合わせていないのだけれども
やっぱり心のふかいところでは、それを求めている気がしてならないのです。
ながらく、米とともに日本の主食であったのであろう大豆。
これを扱っていると、心底そう思います。
作業や暮らしのなかから、この先また何ができるようになるのか、
そっと雪が積もるような、ほのかにあたたかい期待を抱くこのごろです。